オセローは、能の衣裳をベースにして、謡曲台本のセリフをプリントするという衣裳プランで、進めて行きましたが、直接役者さんたちに衣裳を着ていただいて芝居を通して動いてもらうという衣裳付き通しというものをした時に、演出家からなんか普通に売られている製品のようだという痛恨のダメ出しに合いました。
そう言われてみるとそうなんです、、。クレイジーな要素が足りないように感じました。
どうも役者さんたちの醸し出すものと、衣裳が溶け合っていないような、一歩も二歩も後退しているような立ち位置でした。
それでいろいろなサイズの平仮名をスタイロフォームを切り出して、平仮名が衣裳からはみ出して見えるような半立体的な平仮名を上着に縫い付けて、足してみました。
演出家からは、もっとケロイドのような気持ち悪くおどろおどろしくなった平仮名をつけて欲しいというリクエストがありました。私の方では、ポップなものを目指していたので、そこはかなりイメージが違いまして、色々と迷いながらも進めていきました。
今思うと、もう少し役者のセリフとのバランスをもっと意識すればよかったと思います。この時の芝居は、能形式で、動きをセリフを分けるという一役2人で演じるという手法を使っているのですが、その場合、セリフのエネルギーがどの程度のクレイジーさかによって、衣裳のビジュアルを調整するということがあって、その辺のバランスの取り方が十分ではなかったように思います。
反省。
すごくクレイジーな台詞回しをされている役には、少し真面目な感じのビジュアルがより効果的になったり、強気な女の子の雰囲気でセリフを言っているなら、わざと可愛らしい感じとか、繊細な感じに仕上げた方が、いわゆる「萌え」笑 が感じられるんです。これが半熟たまごの法則なんです。わざとずらすということです。かたゆで卵にすると、それはそうだけれども、つまらないということなんです。
このオセローは、実は本番を観る事が予算の関係で許されませんでした。自分が初演のためにデザインした衣裳なのに、ニューヨークでの本番が観れないという経験を初めてしました。予算の問題は、仕方のないことですので、誰も悪くはないのですが、四六時中、劇場で自分が立ち会えないという辛さと向き合っておりました。それが、もうそもそも自分を調える事ができない自分の甘さだったように思います。どうもこの作品における衣裳の最終イメージに焦点があいづらいという現象が起こってしまいました。ゴールが霞んで見えるような気持ちでした。
そういう自分を知る事ができたのは、自分の中では発見だったように思いますし、次回はそういった経験も踏まえて冷静に判断していこうと思います。
ではでは今日はこの辺で。
Comments